小説で読むインプロ:仮面の教え3

(注:この文章には放送禁止用語が含まれています。敏感な方はご注意ください)

 仮面から逃げるように離れて帰宅するサクルの目の前を、看護師に連れられて身体をかしげて歩く笑顔の若者がぎこちなく横切って行った。サクルはちょっとギョッとして体を固めた。何の危険もないのに。そして、見てはいけないものを見た気がして目を背けた。 

  サクルの通勤路(となるはずの、駅への道)には神経科の病院がある。そこの患者の散歩タイムなのだろう。サクルの中学校はその病院がある丘の麓で、中学校の悪ガキたちはそこを「キチガイ病院」と呼び、弱い同級生がいたりすると「おまえ、キチガイ病院に帰れよ」などと言ってはいじめていたものだ。いま、「キチガイ」という単語は、放送禁止用語になっている。使ってはいけないのだ。英語では、 mad や crazy という単語で、普通に使われている。字幕の翻訳者はどうするのだろう?「あいつ、頭おかしいぜ」とかだろうか。どのような言葉を使おうと、侮蔑のつもりで使えば侮蔑になるし、ただの状態描写のつもりなら、ただの状態描写にすぎなくなる。単語が悪いのではなく、使う人の気持ちのあり方をもっと深く教育すべきなのではないか。

 俺はいまなぜ目を背けたのか?
 なぜ、見てはいけないものを見たような気になったのか?
 それこそただの優越感と、排他主義の元にある考え方なのではないか?

 ジロジロ見るな!と怒鳴られたこともある。確かにそうだろう。その「ジロジロ」の中に、侮蔑の意識が含まれているからだ。いや、侮蔑だけとは限らないな。子供の頃は、同じ人間なのに、「こうであらねばならぬ」という状態から外れている人を見て恐怖を感じた。大人になって、その恐怖が侮蔑に変わるのだ。「自分はああなりたくない」から「自分はそうならなかったぜ」という優越感に変わるのだ。
 しかし、いったいなぜ?
 なぜ人間は、「こうであらねばならぬ状態」を断固として守ろうとするのだろう。
 なぜ、いわゆる「通常」とは異なる人をこんなにも敵視・侮辱するのだろう。 そしてなぜ、その人たちを、逆に特別視しないがために、見ないふりをするのだろう?

 不気味に見える仮面、奇妙に見える仮面の動き、そして神経病棟の純粋無垢な笑顔の若者と壊れた機械のような歩行、それらが大きなイメージの波となってサクルの頭に問いかけの種を植えた。

【Live Interaction】
言葉は態度で内容が決まる。字面も大切だけど、根本はそこじゃないんだ。

この散文は、インプロとコーチングの神さまのような人、キース・ジョンストン著『インプロ』の第1章「肢体不自由なものたち」と繋がっています。
『インプロ』を読んでみたい方、三輪えり花にお気軽にご相談ください。


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